【第2回】国内初のワンメイクフォーミュラで多くの人材を輩出する

TRDが日本初のワンメイクレースであるKP61型スターレットを使用したシリーズ「スターレットレース」の終了は1984年。それから6年、再びワンメイクレースを立ち上げた。しかし、それはハコ車と呼ばれるいわゆる普通車ではなく、フォーミュラマシンでのレースであった。

その車両開発と製造を担うのは、1987年に英国ノーフォーク州ヒニンガムに設立されたトムスGB。プロトタイプカーやF3マシンを製作していたこのトムスGBが製作したシャシーに、その心臓部となるエンジンにはトヨタの名機4A-Gを採用。これにヒューランド社製のHパターンの4速ミッションを組み合わせ、タイヤはブリヂストンが一社供給する。

当時、このフォーミュラタイプのレースというと、フォーミュラレースの登竜門であるFJ1600のレース、そしてF3、さらにF3000、そしてF1というピラミッドとなっていたが、その入門フォーミュラFJ1600とFIAが管轄するF3との間の隔たりが大きいのは事実。その間を埋めるジュニア・フォーミュラ・カテゴリーの必要性は誰しもが感じていた。

そこで1990年に登場したのが、このフォーミュラトヨタである。プレシーズンともいえるこのシーズンを終え、その翌年である1991年からはウエスト(西日本)シリーズも立ち上がり2本立てのシリーズでスタートすることとなった。ちょうどこのころに起こっていたF1ブームとも相まって、急増したF1を目指す若者の受け皿として、FJ1600と、その先にあるフォーミュラトヨタに多くの若者が集まった。初年度の1990年こそ富士と菅生(SUGO)の2会場での4戦、参加台数は延べ77台だったが、本格的にシリーズがスタートする1991年にはメインのシリーズが筑波、仙台(仙台ハイランド)も加えた8戦、MIN(現在はマツダ美祢自動車試験場)を舞台に行われたウエストシリーズが5戦開催され、両シリーズに参戦するチームもあって、参加台数は延べ377台(メインが336台、ウエストは41台)という規模に膨れ上がる。それ以後も1992年からウエストシリーズの開催地にTI(現在は岡山国際サーキット)も加わって年間6戦へ。1993年からはメイン・シリーズが年間10戦(8戦の有効ポイント制)を開催するようになり、ウエストシリーズも年間7戦のベスト6戦の有効ポイント制を採用するなど開催数も増えていく。さらにこのフォーミュラトヨタからのスカラシップの制度も立ち上がり、フォーミュラトヨタを卒業し、ここからステップアップしていくシステムも構築され、のちのF1ドライバーを含め、現在活躍している日本のトップ・レーシングドライバーの多くを輩出したシリーズとなっていく。

そんな活況を呈したフォーミュラトヨタだったが、トヨタ・日産・ホンダによって立ち上げられたフォーミュラ・チャレンジ・ジャパン(FCJ)が2006年にスタートしたこともあり、その役割を終えることとなった。継続を望む声もあり、FCJがスタートしてから2007年シーズンまでの2シーズンは開催をしたものの、そこで18年の歴史に幕を下ろすこととなった。

■安心して走れるワンメイクシリーズ

TRDの渡辺一史は当時の様子をこう語る。「私はまだ入社2年目でしたが、1989年にフォーミュラトヨタを担当することになりました。開発のトムスGBから送られてくるとコンポーネントキットを受け取り、国内で調達してきた4A-GEエンジンとシャシーのすり合わせの設計をしながら、クルマを組み立てていくところからのスタートでしたね。シリーズの立ち上がりのタイミングでは、部品供給が満足に行えていない部分もあって、最初のころはよくエントラントさんに怒られました。消耗品や壊れやすい部品などは、国内の部品への切り替えもしていき、よりスムースな運営ができるような体制に移行していきました。イコールコンディションのワンメイクフォーミュラということを謳っていましたので、そのための努力も必要でした」

車両の性能にバラツキがあっては、ワンメイクレースは成立しない。部品の精度向上はもちろん、実際のレースの運営に際しても、ワンメイクならではの厳正な態度で臨んでいた。レースごとに走行終了後の車検は徹底しており、エンジンを解体して中を確認することも日常茶飯事となっていた。時間はもちろん、作業負担も非常に大きいのだが、フォーミュラトヨタでは公正なレースのためにこの手綱を緩めることなく行うことが、エントラントにも広く周知されていく。

また、TRDはこのフォーミュラトヨタの現地でのパーツ供給を行うための予備パーツの持ち込みといったきめ細やかなサービス体制を敷く。エントリーしたからには、ちゃんと走ってもらいたいという思いは強く、部品がなくてレースに出られないということについては、極力避けたかったという。メインとウエストの2シリーズの年間の開催数はもちろん、当時はテストの規制もきつくなく、公式練習会が月に1~2回はあったということで、参加台数はそれほどなくても、テストの日程を考えただけでも大変な数に上るが、サービストラックを各現場へと向かわせた。

■時代の流れに合わせて進化していくマシン

フォーミュラトヨタで使用されるマシンはこの18年にわたるシリーズで2度のモデルチェンジを受けている。比較的リーズナブルな価格のマシンであることは変わりないが、乗員保護の安全性など時代の流れに合わせてアップデートしていく。初代のFT10に対し、2代目となるFT20は、メインロールバーの強化やサイドバーの追加、サスペンションのレイアウトを変更し、それによるカウル形状の変更も行われた。4A-GEエンジンも5バルブ化を行って1995年から投入された。新車はもちろん、コンバージョンキットも用意し、FT10のオーナーにも配慮したものとなった。そして2002年からは、これまでのアルミモノコック・シャシーが、カーボンモノコックへと大きく進化。LSDも採用し、それと同時にタイヤもバイアスタイヤからラジアルタイヤへと変更となった。

TRDの湯浅和基は「このFT30に関してはアルミをカーボンに置換するという大きな進化となりました。カーボンの量産経験もなかったので品質面で苦労した点もありましたが、テクノクラフト開発部が担当し内製となりました。材料の置換だけと簡単に思っていたら大間違いでしたね。足回りはFT20のままで、素材の局部強度が違っており、デリバリー後リコールを出し、いったん回収させてもらったこともあります」

当時FT30の営業面を担当したTRDの鈴木啓之も「既存のFT20を持っていらっしゃるお客様の中でレースを継続する方にコンバージョンキットを中心に販売を担当しました。この登場初年度のトラブル&回収が起きましたから、いろいろなお客様のところを周りました。ちょうどスカラシップやメーカー側からの育成という点が強くなってきていて、安全性という意味でのカーボンの必要性は皆さん感じていて、カーボンモノコック車も受け入れてもらえました。

フォーミュラトヨタの最後は、FCJが立ち上がり、そちらとのダブルレースで参戦するチームもありました。ただ、マシンに全く手を入れられないFCJとは異なり、フォーミュラトヨタはエントラントがいろいろやれるところもあって、そういったカテゴリーは残すべきという声で、一部では引き延ばし策も行いましたが、2007年に正式に終了しました」

最後に、この18年間の活動をTRDの寺尾健二はこう振り返る。
「我々以外にも他メーカーの企画もあって入門フォーミュラの乱立した時代でもありました。その中でもフォーミュラトヨタはパッケージとしては非常によくできていたという自負もありますし、そこから優秀なドライバーが発掘されましたし、あれを走らせることでメカニック、エンジニアといろんな人たちが経験する機会を作る材料を提供できたのは良かったのではないかと思っています。
社内を見てみても、カスタマーレーシングという補給の体制を作りました。それまでは車両を購入しても予備パーツも現場に持っていかない状態で壊れたらレースに出られなくなってしまう。そういったエントラントの負担を減らし、レースの下支えをすることは、現在のヤリスカップやGR86/BRZレースでも引き継がれています。フォーミュラトヨタという経験が、我々の成長する材料になったと思っています」

このフォーミュラトヨタの開催は、TRD内はもちろん、レース業界にも大きな足跡を残したといえる。

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