革新的な発想と地道な努力によって、TRDは日本初のワンメイクレースを生み出した。その開拓から、現在に続く基盤をつくり上げるまでの変遷を各レースの誕生と施策から紐解いていく。
モータースポーツの勝因はマシン7割といわれるほど、車両の性能差がそのまま成績に直結する世界である。もちろん、マシンを使って行われる競技である以上、そういったマシンの性能差を楽しむこともレースの醍醐味の一つであることに違いはない。しかし、「本当に上手くて速いドライバーは誰なのか」という、他のアスリートスポーツと同様の目線でレースを見ていく場合には、マシンの持つ性能差はむしろ邪魔になってくる。
そこで、「全く同じ車種を用いて、さらに同じ改造条件のマシンでレースをしたら、ドライバーの能力がハッキリと見えるのではないだろうか?」という単純な発想から生まれたモータースポーツこそが、同一車種を用いて行う「ワンメイクレース」だ。
日本でのワンメイクレースの歴史を紐解く際に、TRDの名前を外すことはできない。日本で初めてワンメイクレースを企画し、運営を行ったのはTRDだからである。
当時は、この上ないベースマシンとなる車種が新車で発売されていた。1300ccエンジン搭載のFRレイアウト、フロントディスクブレーキ標準装備、車体重量700kg台、2ドアハッチバックといった、今の時代でも魅力的なスペックとパッケージングを併せ持つ、コンパクトスポーツカーの代名詞「KP61型スターレット」である。
トスコ・デポ(現TRD)では、このスターレットをレース専用マシンにするために、チューニングパーツ開発に着手した。そして、レースをするうえで最も重要なエントラント集めにも力を注ぎ、1981年、遂にKP61型スターレットによる日本初TS仕様(現在のN2に相当)によるワンメイクレース開催を達成するのであった。
ワンメイクレースとはいえ、マシンを仕上げるための技術力は必要不可欠だ。開催初年はTRDより車両をデリバリーしたが、その後エントラントによるチューニングが本格化し、トムス、土屋エンジニアリング、浅野自動車やトリイレーシングといった、名だたるチューニングファクトリーがレーシングコンストラクターとして名前を連ね、各チューナーがしのぎを削った。
さらにエントラントの顔ぶれも非常に豪華で、鈴木 恵一選手、関谷 正徳選手、星野 薫選手、浅野 武夫選手といった、後に全日本GT選手権やF3000といった舞台で活躍した超一流のドライバーがエントリーし、サーキットで競いあった。
この時、初代チャンピオンの座は鈴木 恵一選手が獲得した。なお、当時行われていたワンメイク「スターレットレース」はベース車両であるKP61型スターレットの新車販売終了に伴い、1984年にその幕が閉じられた。
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